エコが濁ればエゴとなる。

エコロジーのために冷房を弱めに、とか、エコロジーのためにごみを分別しましょう、とか、
最近は、どこもかしこも、エコエコエコエコ、古賀新一かっつーの、っていうくらい、
エコ活動に熱心ですよね。


でもねでもね、放送局は「冷房を弱めに」とか言うくせに、「テレビを消そう」とは言わないじゃないですか。
飲料メーカーはCMで「リサイクル性の低いペットボトルの購入を控えましょう」とは言わないじゃないですか。
日本製紙はとうとう「再生紙は、むしろ石油を大量につかうため環境に悪い」ことを証明してしまったじゃないですか。
なんかおかしくないですか?


アニヤのエコバッグを買おうと並んだ人たちが道端にごみをポイポイ捨ててたなんて話を聞かなくても、
多くの人が、世にあふれるコマーシャルとしての「エコ」に疑問を感じているのではないでしょうか。
今の「エコロジー」というのは、なにか「得体のしれない都合の良い事情」に、
うまく利用されているような気さえしてくるのです。


いや、だからといって「エコ活動なんてしなくていい」ということではありません。
ただ、テレビが言うからエコロジーを、地球のためにエコロジーを、というのはやめて、
もっと、身近で、実際にわれわれが得をするようなエコを目指したほうがいいのはないのか知らんと思うのです。


「地球のために」という崇高な考えにケチをつけるつもりもありませんが、
とくに私のような凡俗は、地球のために不自由を甘受し続けるのは難しいのです。


冷房を弱めるのだって「電気料金節約」として呼びかけられればガテンがいきますし、
ペットボトルのリサイクルだって、トイレットペーパーと交換してくれる業者がいれば喜んでするしし、
ごみの分別だって、収集印が再分別する手間が税金として跳ね返えってきますよ、といわれれば、
多くの人がしぶしぶながらできる限りのことはやると思うのです。


そうやって「まず自分が得をする。その上で地球環境にもいい。」という活動をしていくのが、
本当の意味でもエコロジーだと思うのですがいかがでしょうか。


まあ、なんにせよ、「エコガラス」のCMでかわいいなぁとおもった成海璃子さんが15歳ということには
驚きが隠せませんでした、ということです。